2024.04.20 Saturday

ひとりトリート aiさんの感想文

風の庭の、ひとりトリートの時空を体験させてもらってからというもの気分的に、三日で一日ぐらいの時間の流れ方にいます。


巨きな一日の中にいる。


地球にいながらにして、公転周期一周300年ぐらいの星の時間の流れ方で暮らすことは、できたりするのかもしれないな。


異星人感覚で、地球を愛でよう。
ひとりトリートアフターの今、そんなことも思います。

帰り道のJRでも、何をするともなく、ゴトンゴトンと電車に揺られながら、ふわりとただその場に在り続けていたら、いつの間にか京都についていた。
電車の中の忙しくスマホを見つめる人々。あれっ?なんでそんなにみんなスマホをみてるんだっけな~?って、浦島太郎的なわたしでした。
満たされていると、なにもしないでもずっと過ごせてしまえるんだな、って。

セッティングしていただいた流れに身をまかせる楽しさ。
思いがけず、さるびの温泉でゆるりリラックス時間をいただいてから、
(平日の温泉はすいていて、とってもよかったです。
ふと畳の部屋をみると、おっちゃんたちが何人もくつろいで横たわっているのが、逆光で見えて。黒いシルエットがごろりごろりと。平和だった。)
ゆるまりながら、運んでいただき、氏神さまのもとへ。
参道の両脇の植木、背が高いのと低いのと。愛らしい参道!
阿波神社は親しみぶかく迎えてくださったような気がしました。

参拝をおえ、阿波神社をあとにして。
いざや、いざや、風の庭。   
道すがら、とんびがくるり、ぴんよろぴんよろ。
リアル雉出現!桃太郎以外で、はじめてみれた!

かんぺきに青空のこの空間、みわたす限りだれもいない。
そのことが、なんとも贅沢で。
かつて、タオ指圧の教室で「気をこの空間いっぱいに広げま~す」さらに「気をこの宇宙いっぱいに広げま~す」ってやったけど、宇宙いっぱいに広げるほうがやりやすいって思ってた。
でも、この風の庭への道すがら、この広がる風景の中では、わたしというものが、このみわたすかぎりの阿波地区一帯に、なんなく広がっていく。
ここでは、すんなりと、どこまでも広がれるんだ。
一帯をつつみこむように、自分という空間がおおきくなっていって、わたしは、でいだらぼっちでいらんぼう、だと思った。

田んぼの、みなも。
そうだ、今は水でうるおう田んぼの季節でした。
ふきぬけていく風。
水の波紋は、田んぼにふく風のはやさと動きを目に見えるかたちで示してくれるんだね。
風のつくる波紋のはやさと、私の歩くはやさとどっちがはやいか、きょうそう!

風にたなびく、銀色のたてがみのような、田んぼのわきのキラキラとひかるあの草はなあに?
五月のたてがみ。銀のたてがみ。

田んぼに、鴨の一団が順番に舞い降りてきて、水面がバシャバシャってなって。
「きゃあ~『ニルスのふしぎな旅』(昭和アニメ)のオープニングみたい!」カモンニルス、カモンナップ!(歌:タケカワユキヒデ)
勝手に田んぼをすいすい泳いでる!合鴨農法やん!
その中の2羽、なにを思ったかグループを離れ、通りを横断して隣の田んぼへいこうとしている途中で、眼が合って。
鴨、オンザロード。しばし、お互いに道に立ちつくしながら、じっと見つめあっていた。西部劇みたいに向かい合って。ふふふ。

うすももいろの目じるしが近づいてくる。
風の庭が近づく。

絵本だったら、この晴れわたっている青空の部分に、文がはいるんだろうな。
文が入るスペースがいっぱい、といっていいみごとな青空だった。
そして絵本の左のページのはしっこに、トコトコ歩いてくるわたし。
右のページは、うすももいろの吹き流しと、にっこりと待ってくれている知子さんが描かれるんだ。
大きなおうちの前で、ゆったりと待っていてくれる風景は、なんだか昔話か童話みたいでした。
(注文の多い料理店さながら。だったら童話かな!?)

味わい、くつろぎながら、縁側からながめる景色。
自転車に乗れたばかりみたいの子のようなはじける喜びが伝わってくる、飛行訓練中のつばめたち。

丁寧にこころをこめて対応してもらえることの、くすぐったいようなうれしさは、ずっとのこる。
王様みたい!って、いうのは、こころをこめて最上級のおもてなしをしてもらってる!っていう自分の中のちびっこちゃんの声、大切にしてもらったことのよろこびなんだ。

地面というものが、こんなにも自分にすいつくようにぴったりくるものとは思わなかった。
こんなにも気がねすることなく、リラックスして自分ひとりでいることの居心地を感じながら、寝ころべたことは今までなかった。
鳥の声をききながら、やすらかに陽の光をあびながら。どれくらい眠ったんだろ。一瞬に永遠があったね。

ひとりトリートと、庭での凧あげ両立しようとして、最近あたらしくゲットした凧を持参してしまっていたり、
2
階でフリータイム的に過ごす時間のようだから、今図書館で借りている「メイキングオブ E.T.」を持っていって読もう、とか(荷物がふえることに気づきやめときましたが!)、思ってしまっていたけど、それは、とんだ考え違いえあったことであるよ。

違うんです、違ってたんです、ひとりトリートって。
ほんとに、自分で実際を体験してみないとわからなかったな!

二階の空間に足を踏み入れる。
流れている音楽のBGMもぴったりすぎて、わ~、私、映画の中にいるみたい、と思った。
まてよ、映画みたい、なんじゃなくて、逆で、映画というものが人生に少しでも迫ろうとしているのかもね。
映画は、リアルライフのエッセンスにちょっとでも近づきたいんじゃないかな。

この空間に身をおいていると、
わたしの属性わたしの日々の用事がなんだったのかや、仕事やら家族や友達やその他、もろもろが、ぎゅん、と遠のいて彼方にいって、なんとなく思い出せなくなって、今ここだけが、そしてわたし一人だけがあった。

そして、脳内電光掲示板に「主人公はわたし」ということばがでてきた。
みんなそれぞれ、たったひとり、主人公。
ここでは、世界に一つだけの花的意味合いの、ひとり、ではなくって、
この世にやってくるときもひとり、この世を去っていくときもひとり。のひとり。
今体験しているこの感覚の先にある究極のひとり感と、あの世感って、実は近かったりするのかもしれないなあって。
あの世感というとおどろおどろしものと思われそうだけれど、私の中ではもうちょっとニュートラルなイメージで。
永遠の魂の旅のなかでは、どこまでも自分と一緒感がひしひしと、ともにあるんじゃないかな。
その旅路で、いちばんいつもいっしょにいるのはまちがいなく自分で。
時間の概念がなく、よけいにモノを持ちすぎるということもないこの空間で、この身ひとつでいるからこそ、ひらめくかんがえだった。
そんなことを思いながら、地上にいながらにして、しばし、地上がなつかしいようなそんな気持ちになりました。

知子さんが、以前教えてくれた、明日この世が終わるとしたら、わたしは庭の松の木の手入れをしましょう。というおばあさん?だったかな?のはなし。
を思い出した。この空間にいる今なら、その気持ち、少しだけわかるかもしれないなって。

いろいろと座ったり、寝転んだり、移動したり。ひととおり、視点を変えることをたのしんだのち、落ち着いたのは、ゆうるりとたゆたう布の下。
あっおひるねカフェの空間だ、と思った。
そしていつの間にか、わたしはおひるねしていたようだった。

すっかり長くなった日も、だんだん西日の色合い。
あざみの花瓶をてらす光。壁に映る木の葉の影。鳥の声々。
風のゆくえが布の動きによってあらわになるさまを、
わたしはわたしの輪郭をはみ出さずにとどまりながら、ながめる。
意識は宇宙の果てまで広がりゆきもするけれど、わたしは今、私をはみだしていない。
わたしのからだは今、ここにある。
そのことのやすらぎ。等身大のやすらぎ。

小さな花たちのお水を味わう。お花の皆さん、わたしのために、ありがとう。
シロツメグサは、ベクトルは下へ、地面方向へのひろがり。そっか、クローバーネットワークだね、って思った。
ピンクっぽい小さい花は、ぴょこん!って外向きのエネルギー。えんぴつの濃さで言うとHか2H。
小さいカモミールは、上へでもなく下へでもなく、この空間へと広がる。
ひとりトリートの時間をおえる頃には、残っていた数滴の水は、どれも甘露のような甘さにかわっていた。

山の端に西日が沈み切るのを見守って、
それは、自然とひとリトリート時間の終わりの合図になった。

まどろみの中で、合図のベルが天界の音楽のようで、そっかBGMの趣向が変わったんだな~って遠のく意識合図であることに気が付かなかったことであるよ。
合図さえも、なにもかもがなじんでいく空間。

ひとりトリートを終えてからの、縁側時間のやすらぎ。
朗読会で今まで何度も(ぐるんぐるんとまどろみながら)聞いていたけれども、このたび、縁側で、真新しい気持ちで、しみむらさきさんを読めた。
時間のない時間の中に身を置いて、今までのどの機会よりも、しみむらさきさんを「読めた感」があって、しみこんでくる。
縁側と黒豆茶により、しみむらさきさんの本の中の世界、と現実の今ここが重なって一体となる、なんとも心にくい演出?のシチュエーション。

あっ、今の私は、おひるねカフェが終わってから、お寺の縁側で黒豆茶を飲んでいたお客さんだ。
お迎えする側もたのしくて、その視点での思い出をずっと持っていたけど、
そっか、おひるねカフェのお客さんってこういう気持ちだったのだろうな、って思った。(17年ごしに)

ひとつの出来事を味わう機会は、角度を変えて何度でも用意されていることのおおらかさを思った。
だから、わたしは、今その時々の現象をそのまま味わえばいいんだね。

だれかに何かを首にふんわりとかけてもらうって、そうそうないよ。
金メダルかけてもらう金メダリストとかぐらい?いや、ちょっと違うかな。
ふわまもりをにかけてもらって、ふわりと身体がかるくなった。
「ふわ守られている」、と思った。
なにか大きなものにつつまれている感じ。そっか、つつまれてるんだな。身をまかそう。
そう思うと、「ふわ守られてる」あの感じがまた、やってくる。
ありがとう、ありがとう。

荷物が少ない方がいいっていう意味ももちろんあるけど、それ以上に
この身ひとつでいいんだ。っていうことを、こんなかたちで体験させてもらえるなんで。
マイ走馬灯の中でもきらりと見出しがついている、たいせつな一日になりました。

かけがえのないすてきなギフトを、ありがとう!